私が愛したあなた。


嗚呼。
このひんやりとした、空気。
なにもかもを凍てつかせる。
己は瞬きも出来ず、
ただ立ち尽くし、
血を滲ませた。

「所詮は」
頭のどこかで亡き父の声が聞こえた。
目の前に闇が訪れ恐怖が耳を塞ぐ。
だが同時に、
亡き父の声だと、覚えていた己に驚いた。




「父上にみせてくるっ」
重晴より手渡された布袋を握り締め、仙丸は飛び跳ねるように言った。
じゃらりと布袋が鳴る。
まだ幼い。
そう、決して悲観的な意味ではなく重晴は感じた。
「内密にと申したはずですが・・・」
仙丸は僅かに眉を下げ、彼を見上げたが。
言葉のわりに重晴は困った表情をしていなかった。
「父上だけにだ。良いだろう?」
にこりと仙丸は笑い、重晴は苦笑した。
肯定の意を含めた笑みであった。
しかし、
直後に困ったような表情に変わる。
「宜しいですが、今はあまり」
「お忙しいのか?」
「いえ、その・・・まあ」
「そうか。とりあえず行ってみる」
「・・・」
くるりと仙丸が踵を返し、
思わず重晴は手を伸ばした。
けれどその手は宙を掻き。
ぱたぱたと小走りに去って行く幼子を見送り、
重晴は思わず目を伏せた。


「父上」
そう呼ぼうと開いた口は、何も発せずに閉じられた。
父のいるはずの部屋から複数の声がする。
しかしそれはさしての問題ではない。
一瞬仙丸は己の耳を疑った。
そして仙丸は思わず身体を縮こませる。
更にそれは再び響いてきた。
「辰千代が不満なわけではない!」
普段の父からは想像も付かぬ様な怒声。
戦場ではこのようなお声も出しているのだろうかと彼はふと思う。
「・・・たつ、ち、よ。たつちよ」
部屋の中にいる大人達の話題はどうやら彼の事らしい。
仙丸は聞こえたその名を口の中で反芻した。

辰千代。
以前どこかで耳にしたことがある。
確か、
彼の兄は以前父と共に四国攻めに。
兄は、秀次と言ったか。

仙丸が思い廻らせ始めたその時、
「・・・物の様に扱うなど!」
強い語気が再び彼の耳に入る。
我に返った仙丸は小首を傾げた。
一体何の話なのか。
何故父はこんなにもお怒りなのか。
襖一枚隔たれただけで随分と聞こえない会話。
多少のもどかしさを感じながらも、仙丸は出直そうと考えた。
これ以上居ても仕方が無い。
そう感じて彼は襖に背を向けた。



襖の中では秀長と、主立った重臣が数名いた。
外は晴天。
清々しいほどに晴れ雲もまた穏やかに流れている。
しかし、
部屋の空気は重く全員の肩に圧し掛かり、吐く息もまた重かった。
上座に座る秀長は、
普段の雰囲気を微塵も見せずにいた。
「しかし、殿下の命令なれば・・・」
家臣の声に秀長は視線を落とした。
頭ではわかっている。わかっているのだと繰り返す。
そしてゆっくりと手を額に添えた。

もはや用済み。
ならば信頼の置ける、自分に近しい縁者を。

その考えはわからないでもないと、秀長は思い浮かべた兄に頷いた。
だが仙丸を想えば。
秀長は愛しい息子の先行きに心を痛めた。
「仙丸様には哀切極まりませぬが後の抗争を防ぐ為にも」
「追い出せと言うのか」
突き刺すように発せられた言葉に家臣は皆口を噤んだ。
その時。
ばらばらと、何かが零れ落ちる音が部屋に響く。
襖に近い家臣が素早く動き、襖を開け放った。
誰も居ない。
かわらぬ静寂がそこにあった。
ただ違うのは、
「これは」
首を傾げながら彼は廊下に広がった一粒を摘まむ。
小さなそれは光を反射して輝いた。
「金平糖、ではないか」
横から覗き込んだ一人が怪訝そうに言った。
その声に秀長が顔を上げる。
同時に、
「仙丸・・・っ」
悲痛とも言える声音で席を立ち。
「秀長様っ」
呼び止める者。
思わず腰を浮かせる者。
何も見ずに秀長は部屋を飛び出した。
そうして、
行き先を決めず秀長は小走りに廊下を進む。
途中妙にそわそわした人影が見えた。
「重晴っ」
「・・・秀長様!」
ありありと表情に申し訳無さを浮かべて重晴が振り向く。
秀長は厳しい表情を崩さなかった。
「仙丸を見ておけと」
「申し訳御座いませぬ・・・」
深々と頭を垂れる重晴。
秀長は彼に追い討ちをかけようとし、やめた。
表情を緩ませ、重晴の顔を上げさせる。
「話を聞かれてしまったようだ」
「そんな」
「・・・。どうしたら良い。私は」
何とも言えぬ微笑を湛えた主君に、重晴は何も言えなかった。




仙丸はふらりと手入れのなされた庭を見、縁に座り込んだ。
だが庭は彼の瞳には映らない。

これからどうなる。
居場所はあるのか。
所詮は三男。
生れ落ちたその時から振り回されて生きる運命だったのか。
これから、
何処に行けばいい。

仙丸は深く息を吐いた。
そうしたことで、全てを吐き出してしまいたかった。



「・・・仙丸・・っ」
息せき切った秀長の声。
その声に仙丸はわずかに肩を震わせた。
だが仙丸は、振り向きはしたが言葉を発しなかった。
無表情な顔ではあったが、秀長は安堵の表情を浮かべる。
そして仙丸の真横にしゃがみ込んだ。
ややあって。
秀長は仙丸の手を取り、
「私のそばに居てくれ」
そう言って小さな右手をそっと握った。
「・・・」
言葉は発せられぬままではあったが、
握った手を仙丸は握り返した。
秀長にはそれで充分だった。

仙丸が、くしゃりと顔を歪めた。









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反転で呟き。
よくある、盗み聞きじゃないの聞こえちゃったのパターン。
2008.11.18