ひととき。


活発に動き回るような時間を過ぎ、うとうとと眠気を誘う時刻になり始めた。
天気も晴れやかで、暑くも寒くも無い。
川のせせらぎも心地よく、このまま眠ってしまうほど穏やかだった。

「そろそろ帰るか」
誰に言うでもなく、ゆっくりと腰を上げた。
数歩歩く。
水を飲ませていた馬に話しかける様に、二、三度馬の体を叩いた。
馬が小さく嘶いて、信幸は微笑んだ。









門をくぐると、すぐに人が出て来た。
「おかえりなさいませ、若」
「ただいま」
軽々と馬から降りると、馬を預けた。
一気に走らせて帰ってきたものだから、少し疲れた。
信幸は、着替えてしまおうと、自室に戻ることにした。


そうして廊下を歩いていると、足早に来る女が見えた。
あれは確か・・・。
何度か顔は見たはずだと信幸は思いながら、そのまま歩んでいった。
するとあちらも信幸を確認したのか、まず一礼をしてから
「これは、若様。弁丸様を御見掛けしませんでしたか」
少し慌てた様子だった。
「いや・・・見ていないが」
「左様に御座いますか。では失礼致します」
急ぎの用故、らしく。
ぺこりと頭を下げると、またきょろきょろと辺りを見回しながら去っていった。





弟の弁丸と信幸は、あまり似ていなかった。
どちらかと言えば背の小さい弁丸は父親似で、逆に信幸は母親似だった。
御家を継ぐか継がないかという所での教育の差もあるかもしれなかった。
信幸は信幸で、奔放な所があるのだが。弁丸はそれ以上だった。


信幸は襖を開けて、すっと中に入った。

「・・・」

部屋の隅っこに、何かうずくまったものがいた。
小さなそれは、静かに呼吸をしながら、こちらに背を向けていた。
弁丸か。
そう思うと、ため息一つ吐いて、信幸はゆっくりとそれに近づいていった。

近づいても起きる気配は無かった。
おそらく、弁丸を探していた女は教育係か何かだろう。
この弟は静かに書を読む、といったことは好きでなかった。
長々とした戦の話や百姓達の話、といったのは好きらしいけれども。
「ん・・・」
そっと触れると、弁丸が身じろぎした。

「弁。起きろ」
声を掛けると、弁丸は眠そうに目を擦りながらも上半身を起こした。
「・・・あ、兄上。おはようございます」
にっこり。
そう微笑む弟に、またため息が出た。
「お前また逃げ出してきたんだろう。駄目じゃないか」
呆れた声で信幸が言っても、この弟には効かない。
「だって、つまらないものは仕方ないんです。つまらない」
「そういう問題ではないだろう」
「弁には大事なことなのです、兄上。兄上だって」
抜け出したことがあるでしょう。
と言い掛けた所で、源二郎の口は塞がれてしまった。
「お前のために、していることなんだ。戻れ」
「・・・はい」
兄に怒られ、弁丸はしゅんと頭を垂れた。

二人は座ったまま、動かなかった。





「兄上」
少しの沈黙があった後に、弁丸はぽつりと言った。
「・・・戻るか?」
頭は、垂れたままだった。

「父上の仕えていた武田は・・・滅亡してしまいました」
「・・・勝頼様も、信勝様も、ご自害なされました」
信幸は突然何を言うのかと思ったが、黙っていた。
「その後頼った織田も本能寺で倒れました」
「ああ」
「小さな真田家は、このままでは潰されてしまうとおっしゃっていました」
「誰が」
「父上です」
すっ と、二人の目が合った。
「・・・人質に行くのでしょう」
何も感じ取れない顔で、弁丸は言った。
「聞いていたのか」
「すみません」
「いや・・・いずれ知らなければならないことだ」


武田家は織田家によって滅亡してしまった。
あのとき小山田を取るのではなく、この真田を取っていたら。
もし、というものは無い。
それに真田のみで耐え切ることは難しかったかもしれない。
いろいろ考えても仕方の無いことだ。

信幸にとって、人質として行っていたので何度も会うこともあり、武田勝頼の嫡男信勝は主家の御子ではあるが、弟のような存在だった。
弁丸も慕っていた。
けれどもその彼も、武田家の主として消えてしまった。
そして生きるために織田家を頼っても、その織田家も滅んだ。
次は。




「真田家は、生き延びねばならぬ」
信幸はそのまま続けた。
「そのために、弁丸。お前の力が必要なのだ」
「・・・」
「織田家も滅ぼされてしまった。後ろ盾がいなくなってしまったのだ」
「はい」
「父上は、お前を上杉へ送るだろう。不本意ながらな」
苦笑交じりに信幸が言うと、弁丸はちょっと首をかしげた。
「手元から離したくないそうだよ、お前をね」
「はあ」
弁丸は少し照れた。
「上杉は義を重んじる。敵になるとやっかいではあるが、味方になると頼もしい」
「父上がおっしゃっていましたね」
「そうだ」


「弁」
信幸は立ち上がって、笑った。
「たくさん学んで来い」
弁丸は見上げて、強く頷いた。
「兄上のお役に立てるように、励みます」
「父上ではないのか」
「・・・父上も偉大であると、尊敬しておりますが」
照れるように、胸の高さで両手の指先同士を合わせると、弁丸は
「兄上は、その上を行くと弁は思うのです。だから」
お役に立ちとうございます。
と、細々と言った。

なんということを言うものだと感じながらも、
信幸は弁丸の頭を撫でた。






カラリ。

襖が開いた。

「・・・三十郎」
この真田兄弟の世話役として、矢沢三十郎がよく父昌幸に命じられていた。
その彼がいた。
決して穏やかな表情ではなかった。

「弁丸様。このような所に隠れておいででしたか」
ずかずかと入ってくると、唖然とする二人の前に立った。
「殿がお呼びです」
「・・・怒られるの?」
弁丸は立ち上がって信幸の後ろに隠れた。
「乳母殿も隣においででしたから、そうでしょう」
まったくといった顔つきで三十郎はため息一つ。
「若も、野狩に行っていたそうですが」
「・・・」
「本日は、弓矢の練習をするご予定では無かったですかな」
「あぁ、いや、その」
「若がおられないと、困り果て、結局日を改めることになったとか」
「そうなのか」
「お二人してまったく、変な所ばかりが似ておりますな」

誰に、とは聞けなかった。



「とにかく、この三十郎が共に参ります故、行きましょう」
三十郎が手を差し出すと、弁丸は安心してその手を取った。
「・・・三十郎がいてくれるなら」
なんだかんだ言って庇ってくれるのだ、三十郎は。
「若も後ほど呼び出されましょう。行方をくらまさない様に」
嫌な笑みを向けて言い残すと、三十郎は弁丸を連れて出て行った。


あのような笑みを向けてわざわざ呼び出す事を教えるとは。

「・・・行方をくらませと言ってるようじゃないか」
信幸は軽く頭を掻いた。








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反転で呟き。
「弁」と言わせたかった。
そしてこの兄弟は1歳差よりも歳が離れていて欲しい
2008.4.25