平野口の正面に築かれた出丸。
「真田丸」と呼ばれたこの出丸に伊木遠雄は足繁く通う。
軍監という役目のためであった。
そう当初は。
「真田殿」
こちらに背を向け遥か遠くを眺めていた幸村は振り返る。
呼んだ瞬間、遠雄は舌が上顎に引っ付くような感覚を覚えた。
「伊木殿・・・」
ふわりと微笑まれ、つられて遠雄も微笑んだ。
ここには今幸村と遠雄の二人のみであった。
足軽達の訓練中なようで、将を含め大半は出丸の外にいた。
ただ、
果たして本当に二人のみであるのかはわからない。
ふと遠雄は何度か見かけた忍を思い出した。
きっと今も何処かにいるのだろう。
彼が黙っていると、幸村が声を掛けた。
「何か、言伝でも・・・?」
控えめながらよく透る声。
その声は不安に溢れていた。
それを吹き飛ばすとまではいかずとも・・・
遠雄は少し照れたように笑った。
「いえ、これといったことは」
「良かった・・・」
幸村の口元から安堵のため息が漏れる。
浪人衆への信頼感は未だ皆無といった状況であったので、何を言われるのかと心配したのだろう。
遠雄はそう推測すると同時にやり切れなさも感じた。
どうしようもない。
ただ存分に幸村が戦働きをすることが出来れば良いと願う。
「みな、随分と、頼もしくなりました」
幸村がゆっくりと外で訓練を行う兵達を眺めた。
我が子を慈しみまた育てているといった感覚があるのだろう。
自然遠雄には背を向ける。
それをじっと見つめていたが、やがて遠雄は床に両手を付いた。
顔は幸村の背に向けたまま。
「真田殿、ひとつ許して頂きたい」
幸村は振り向かなかった。
耳に入らぬことはない、と遠雄は息を吸った。
「貴殿と共にこの出丸に」
「またその話・・・」
遠雄の言葉を遮り、幸村は嫌そうに遠雄を見下ろした。
軍監である彼に居られると自由が制限されるのではないか。
それを危ぶみ幸村は嫌がった。
もうひとつ。
彼は、年は父と子のように異なるが重成と同じようなよき武士であると幸村は見ていた。
気に入った者を側に置きたい気持ちはある。
何より秀吉の下で人質となっていた頃の知人でもある。
けれど。
遠雄は遠雄で引き下がらなかった。
彼としては幸村が動きづらくならぬように行動しているつもりだった。
そしてなにより真田の副将として戦働きがしたかった。
真田が、幸村が気に入ったのだ。
遠雄は以前素直にそう言ったことがあった。
あの時は。
顔を歪められただけで終わってしまったが。
だがその後にこっそり、忍が遠雄の元へ寄り囁いた。
その言葉に遠雄は随分と元気付けられたものだった。
「前にも、返答したはず」
幸村は倦怠感を臆面もなく漂わせて言った。
「何分諦めの悪い者でして」
「わざわざ・・・出丸に出ずとも、城に詰めていれば」
「それでは意味がないのです」
「・・・」
幸村は冷笑的に肩をすくめた。
「伊木殿は、しつこい」
まるで浮いているかのように音も無く、幸村は遠雄の眼前まで歩む。
遠雄は妙な威圧感を覚えた。
床に付いた己の両手を凝視し、そのまま動かなかった。
否。
動けなかった。
全身が萎縮する。
汗が一筋流れ出た。
その視界の端に幸村の足先が入ってきた。
表情は無論わからない。
いつものように微笑んでいるかもしれないし、
いつものように無表情でいるかもしれなかった。
瞬間、
息が止まる。
酷く鈍い音を立てて遠雄は仰向けに倒れた。
彼は何が起こったのかと、ただ瞬きを繰り返す。
げほりと咳が出た。
風邪ではない。
ふと胸元に痛みを感じて片手で触れた。
ひぅ、と空気を吸う。
呼吸をするのがなんとも辛かった。
呆然とした所で、遠雄を見下ろす幸村がいた。
それを遠雄はぼんやりと見つめる。
幸村はくすくすと笑う。
とても穏やかな微笑だった。
けれど何処か違和感を感じた。
それは一体何か。
遠雄にはわからなかった。
「伊木殿、懲りた・・・?」
「・・・ぁ」
そこで遠雄はひとつ合点がいった。
幸村に勢いよく蹴り飛ばされたのだと。
何度も懇願した結果がこれか。
そういえば、これで二度目だ。
遠雄は口元をゆるめた。
笑いたかった。
けれど胸元が痛くて笑うことは無意識にも躊躇われた。
その様子が意外だったのか幸村は瞬きした。
一度深呼吸をして、遠雄がのそりと起き上がる。
思わず幸村は数歩下がった。
衣服の乱れを直し、遠雄は正面から幸村を見つめた。
「某はもう真田軍の将です。何とされようと、貴殿と共に行きます」
頑なに言い続ける。
見張り役のくせに。
幸村は深くため息をつくと、
「去ね」
静かに遠雄を睨み据えた。
彼は一瞬悲しげに口を噤むがすぐに一礼して幸村に背を向ける。
清々しくもあり頼もしげでもあったその影は今は無い。
ゆっくりと歩み始めた遠雄を見、幸村は僅かに口を動かした。
「六郎」
「は」
瞬間、
音も無く何処からか忍が一人。
幸村は正面を向いたまま、忍が背後に控えたのを感じた。
「筆」
ぶっきらぼうに一言幸村が言うと、忍は素早くその手に筆と紙を差し出す。
墨まで用意済みであったことに幸村は軽く驚いた。
用意済みであったほうが実際良いのだが。
と、同時に眉間に皺を寄せる。
誰も彼もが予想していない事をする。
一言幸村が嫌味を言おうとした時、
ギシリ。
板の軋む音がした。
遠雄の踏み締めた板からであった。
幸村ははっとして筆を滑らせる。
少し風に当て乾かしてから、ぐしゃりと丸める。
筆は床に捨てた。
忍がそっと筆を拾うのを幸村は目の端で見た。
何も言わずにぐしゃりぐしゃりと両手で丸める。
少しでも油断をすると後悔の念が己に襲ってきそうだった。
いや。
後悔か、それとも羞恥か。
ぎゅ、と力を込める。
そして改めて遠雄の背を眺めた。
随分と寂しげな。
幸村はくすりと笑った。
「伊木殿」
そっと、けれど幾ばくか鋭く幸村は呼ぶ。
遠雄は足を止めた。
瞬間、
「ぃッ・・・?!」
何かが遠雄の頭にぶつかる。
彼が己の足元を見るとそこにはくしゃくしゃに丸められた紙が落ちていた。
それの意外な殺傷能力に驚きつつ、遠雄は頭を撫ぜる。
幸村を見やると、彼はすました顔で佇んでいた。
何を言われるのか。
遠雄は僅かに首を傾げた。
だが、ただあるのは沈黙。
遠雄は仕方なしに紙を拾い上げて伸ばす。
手紙の様式を整えてはいなかったが、それでも手紙のようであった。
そこにはただ一言が書き付けてあった。
『一命を棄るは過分也』
すぐにはっとして遠雄は顔を上げた。
だがそこに幸村の姿は無い。
いつの間に消えてしまったのか。
「真田、殿・・・」
遠雄は憮然たる面持ちでただただ立っている事しか出来なかった。
しん、とした出丸。
遠雄には騒々しい野外の声がずっと遠いものに聞こえた。
丁寧に紙を折りたたみ、そっと懐に仕舞い込む。
あの忍から聞き及ぶこともあろう、と遠雄は考え、
「真田殿、これでは余計に諦め切れませんよ」
そう言ってくつくつと笑った。
遠雄は静かに出丸を後にする。
途中出会った同僚に、頬が緩んでいる、と怪訝な顔をされた。
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反転で呟き。
彼は照れるとその場から消えれば良い(ぇ
2008.7.31