がちゃがちゃと鎧の擦れ合う音が止んだ。
秀頼は眉を歪め視線を落とす。
足が動けなくなったのだ。
視線の先には、必死の形相の淀が秀頼にからみついていた。
「行ってはならぬ」
淀の口から強く言い放たれた言葉に秀頼はさらに表情を歪ませる。
「このようなかたちで名を残せと言うのですか」
「行ってはならぬ」
いくらか繰り返された問答だった。
秀頼は軽く息を吐いた。
と、
今の出来事でさえ驚愕しているというのに、淀はこの秀頼の動作に腰が抜けそうになった。
何時からこのように意地悪くなったのか。
「母上」
強めに淀を呼んだ秀頼の声に、
「大事な御身を敵に晒しとうはない。母の、母のこの想いがわからぬのか」
咳き込む様にして淀は反論した。
「なれば余も問いましょう。余の想いがわからぬのですか、母上。一戦も交えぬとなれば、後世の者はさても秀頼は内府思いよのとせせら笑うであろうよ」
今まで見せた事も無い様な表情を向けて秀頼は鼻を鳴らした。
淀はそれに目を丸くしたが、やがてふるふると小刻みに震えた。
「・・・。奴らの所為か。そなたを誑かしたのはあの浪人衆か」
呟く淀を見下ろして、秀頼は静かに首を左右に振る。
「余は、男とはなんたるか、を・・・知った気がする。いや、教えられたのだ」
しゃべりながら、秀頼の脳裏には全てがまさに軽快といった男が浮かぶ。
重成と共に男を呼んでは教えを乞うた。
教え、といっても男にとっては何て事のないものであったが、秀頼や重成にとっては新鮮なものばかりだった。
秀頼が男を懐かしく思っていた時間はほんの僅かである。
それでも今の状況を考えれば長かった。
「秀頼」
自分を呼ぶ声で我に返った秀頼が見たものは、母の涙であった。
「行ってはならぬ」
さきほどまでとは打って変わった弱々しい女の声。
思い掛けない出来事に、ただただ秀頼の瞳は驚きに満ち口はぽかんと開けられた。
全身が痺れて動けなかった。
しばしば淀のすすり泣く音が空間に木霊する。
だが秀頼の耳には、押し寄せる東軍の銃声、喊声が聞こえていた。
「すでに遅う御座いますよ」
不意に波を揺らさぬ声と共に速水守久が現れた。
話を聞いていたことに少なからず秀頼は不快を感じたが、今はそのようなことをわざわざ口にするべきではないのもわかっていた。
秀頼が甲州、と声を掛けると淀も気付いたのか立ち上がる。
「一先ずこちらへ」
一切を聞かずに守久はやや緊張した表情で言った。
秀頼は出陣を期待したがそれは一瞬で崩される。
守久が促す先は城の外へと続く道ではない。
不満気にする秀頼に守久はぴしゃりと言い放った。
「守りを固めるのです」
この言葉の直後、淀は小さく悲鳴を上げた。
爆発が起こったからだ。
落ち着く前に再び轟音が場内に響く。
侍女たちの悲鳴が上がる。
やがて騒然となった。
どうやら内部からも火の手があがったようだった。
ややあって三人は硝煙のにおいをかぐ。
「ここはもう危のう御座います。お急ぎを」
守久が急かしてやっと淀が動いた。
「死んではならぬ。秀頼は、死んではならぬ」
「母上、」
「お急ぎ下され」
急かす守久。
秀頼の袖を引っ張る淀。
ついに秀頼はなすがままに、連れられて行く。
母は子の想いを知りながらそれを押し込め、
子は母の想いを知りそれを押し込むことを止めた。
ふと。
秀頼の脳裏に妻の姿が蘇った。
袖をひかれながら秀頼は唐突に尋る。
「千は如何した」
尋ねられた二人は言葉に窮した。
千を使い徳川と和議を結んで貰おうと、すでに治長と図っていたからであった。
このため、すでに千は城を出ているだろう頃合のはずだった。
「千姫様は・・・」
守久がもごもごと口をにごす。
かわりに淀が投げやりに答えた。
「於千が事は後じゃ」
この話題はもう口にするなと言わんばかりに、秀頼はさらに強く引っ張られた。
轟音が再び城を、大地を揺るがす。
終わりだ、と守久は素直に思う。
ならば屍を曝さぬようにしなければ。
守久は治長が想定した最期を実行すべく目的地へと二人を急がせた。
ちらと守久が後ろを見やる。
秀頼は通り抜ける座敷やその周りの空間に至るまで全てを眺め回してい、淀は不安そうな表情を浮かべながら、僅かに見える大坂城下を見やっていた。
「守久!」
前方から守久に声が掛かる。
彼が見やるとその先にいたのは治長だった。
「修理っ」
守久や秀頼が口を開くよりも早く淀が声を上げた。
「於千たちはどうなった」
ほんのり紅潮した淀が早速尋ねると、治長は強く頷いた。
「無事に城外へ」
「そう、か。良かった」
は、と安堵の息を吐いて、淀は表情を緩める。
そのやり取りで秀頼は千が居ないことに合点がいった。
「母上」
秀頼が静かに声を掛けるが、淀は微笑みを返しただけだった。
守久と治長が無言で頷き合い、治長が秀頼、淀の両人を見つめる。
その視線を受け、二人も彼を見返した。
「御供仕る」
その言葉に、秀頼は何処か頭の隅の方で最期を感じた。
爆発音が聞こえた。
火は轟々と城を包み込み、すべてを灰にせんとしている。
それは城に残る者を例外無く焼き尽くす。
無論秀頼も。
「千が妻で良かった」
彼女の目の前に立つ秀頼は酷く哀しげな表情で微笑んでいた。
「千。幸せになれ」
「秀頼様」
目の前が歪む。
千は秀頼へと手をめいっぱい伸ばした。
刹那。
「何故夫と共に相果てぬか」
吐き捨てられるように呟かれた父の言葉が千を砕かんと迫る。
ぐにゃり世界がまわった。
「千姫様」
揺すられて千は目を覚ました。
どうやら僅かな時ばかり眠りについてしまったようだった。
見えることの無い、炎上しているだろう城を見た千はしばらく呆けた。
侍女が小首を傾げる。
「大丈夫」
我に返り微笑んだ彼女に侍女は安心して微笑み返した。
侍女が再び離れると、不意に千は子どもたちの事を思った。
実の子ではなかったが、そのような些細な事、と千は気にせずに接しまた育てた。
今は何処で何をしているのか。
無事に逃げたのか。
それとも。
探しに行きたい。
千は止め処ない思考でいっぱいになった。
と、ここで千は思い出した。
業火に包まれる城を。
夫を。
そして別れの言葉。
「秀頼、様」
ぽつりと呟かれた言葉は誰の耳にも入ることはなかった。
「秀頼様」
最期の様子を千はこの目で見たわけではない。
ましてや城が火に包まれた事さえ見てはいない。
千が思い出す秀頼は、はにかんだ笑顔の秀頼であった。
美しき大坂城で二人きりで会う僅かな時を過ごした際の表情であった。
「秀頼様」
しゃくり上げ始めた千に侍女がようやっと気付き慌てた。
千は、
「大丈夫、心配しないで」
と微笑もうとしても出来なかった。
涙にむせぶことしか出来なかった。
だが今は、ただ涙を零していたかった。
千は強引に涙を止めようとはしなかった。
「千は・・・千は幸せに、なります」
秀頼たちの自刃と、秀頼の子らの発見が千に伝えられたのは、もう間も無くであった。
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反転で呟き。
秀頼と千は清いイメージなのでそんな感じのタイトル。
嗚呼・・・もっともっと言葉のちからが欲しいなぁ。格好良く比喩とか色々駆使したい。
2009.5.7