汚くは、ないのだ。
汚れてはいない。
落とそうとせずとも、良い。
これは己がための鮮血。
けれども、
そっと手に取るは石鹸。
次に手に触れるは水。
落としたいのか。
これを。
馬鹿な。
そんなこと、出来はしないのだ。
幸村は己の手を覆った。
そっと手がふれた。
いや、ふれたかどうかもわからない。
けれども
はっとして手を胸元に寄せる。
俯き加減のそんな彼を覗き込む。
伏し目がちの目と視線がぱちりと合う。
彼はそっと身を引いた。
勝永は腰に手を当てると、軽く鼻を鳴らした。
「なに」
「・・・は?」
不機嫌そうに言われて幸村は戸惑った。
「どうかしたの」
「いえ、なにも・・・」
「ならそんな気にかけてほしいって感じさせるなよ」
「そんなこと、してません」
「・・・」
気まずい雰囲気が辺りに満ちた。
お互い視線を合わすことは無かった。
「幸村」
呼ばれて顔を上げた瞬間、勢いよく手を掴まれた。
「なにを」
「別に」
ただ掴まれた。
それだけだった。
幸村は勝永の意図がわからなかった。
やがて。
「荒れてんな。いや、当たり前かもしんないけど」
でも荒れすぎじゃないか。
独り言のように勝永は呟いた。
「なにが、ですか」
「お前の手」
「・・・はあ」
「なんでこんな荒れてんの」
「と、言われましても」
「うーん」
しばらく己の手と幸村の手を見つめて。
「あ、そうだ」
幸村の手を握ったまま、勝永は歩き出した。
「どこへ・・・」
「治房んとこ」
有無を言わさず、ずかずかと勝永は歩いて行った。
その間始終無言。
治房の部屋へも無言でガラリといきなり入る。
「ちょっと借りたいものがあるんだけど」
「な、なんだ突然」
丁度治房は書物を持ってどこかへ行くところだった。
「塗り薬とかない?」
「薬?」
「こいつの手が結構荒れててさぁ」
ひょいと掴んだままの幸村の手を上げる。
何か無い?
と勝永は首を傾けた。
「・・・あー、ちょっと待て」
書物のことはまぁいいかと考えて。
治房は書物を置くと、ごそごそと探し始めた。
「確か、この辺に」
「いやこの辺りだったか」
「うーん・・・」
薬探しは難航しているようだった。
勝永と幸村は座ってそんな治房を眺めていた。
しばらくしても見つからず、段々と物が散らばってきたので、
「どうせ、治らないので・・・いいです」
お騒がせしました。と幸村は立ち上がった。
「あ、っちょ・・・幸村!」
勝永が伸ばした手は、
幸村の袖にそっとふれただけだった。
どたん。と勝永がバランスを崩してひっくり返った。
無意識に手を撫でながら、幸村は廊下を歩いた。
部屋を出て角を曲がって。
「真田」
「・・・!」
幸村が驚いて顔を上げると、相手も驚いた様子だった。
「治長、殿」
「そこをどけ。通れん、邪魔だ」
「っすみません・・・」
治長は手で払う仕草をすると幸村はビクリとして脇に避ける。
どうやら治長は治房の所へ行く様子だった。
「書物すら持ってこれんのかあいつは」
と、ぶつぶつとイラつきながらも、治長はふと目を留めた。
「それはどうした」
「?」
なんのことかと幸村は思った。
「その手」
「て・・・?」
「その手の荒れようはどうしたと言っている!」
ビクリと幸村は縮こまった。
「・・・あ、あの」
「水仕事でもやっているのか貴様は」
「・・・」
幸村はもごもごとして、
更に治長をいらいらとさせた。
何故理由を話さねばなさないのか。
治長が腕組みをして待つので、幸村はげんなりした。
さっさと話して逃げようと観念する。
「手を洗って・・・」
「荒れたのか」
幸村はコクリと頷いた。
「馬鹿か貴様」
呆れてため息をつく治長。
そして無表情のまま懐に手を入れ、小さな容器を取り出した。
なんだろう、と幸村が見る。
その容器はとても可愛らしくて。
似合わない物を持っているものだと幸村は思う。
その容器を治長は幸村の手を取り、無理矢理持たせると、
「必ず返せ。いいな!」
「・・・ぁ」
あまりに突然で。
そして想像もしていなくて。
ぽかんとする幸村を置いて治長は足早に去って行った。
幸村はそっと容器の蓋をみた。
「おい治房!」
襖が壊れんばかりに開けられた。
中にいた勝永と治房が驚いて治長を見る。
「うわっ」
「あ、兄者!」
治長は構わずにずかずかと入ってきた。
その瞬間。
治房は書物のことを思い出した。
「すまん!すっかり忘れて」
「この阿呆ッ」
言いかける治房をひと蹴り。
ころげる治房を無視して、治長は勝永に向き直った。
勝永は何が来るのかと身構える。
人差し指を勝永に突きつけると、治長は
「貴様、あれをよく見ておけ!」
「あ、あれ?」
「真田のことだッ」
「はあ」
「まったく、何を仕出かすかわからん!」
よく見ておけと再度念を押す。
「はいッ」
眉間に皺寄せた治長の剣幕に圧されて、勝永はぴしりと正座した。
「・・・これは持っていくぞ」
満足はしたのか、治長はころがっていた書物をかき集めると静かに出て行く。
「・・・」
襖はぴしゃりと閉じられて。
治房と勝永は顔を見合わせた。
「又兵衛殿」
さて槍の手入れを始めよう、とした所に声が掛かった。
仕方なく又兵衛は槍を置いて振り返る。
そこにいたのは幸村だった。
「幸村か。どうした」
「あの」
静かに又兵衛に近づくと、目の前に座った。
そして、躊躇うように、けれどもそっと手を前に出した。
その手には可愛らしい容器が。
「これは?」
「治長殿が・・・貸してくれました」
又兵衛は首をひねった。
「治長が?珍しいな。なんでまた」
「わかりません・・・」
幸村は困っている様だったが又兵衛も困った。
「それでこれをどうせよと・・・」
ひょいと容器を手に取り蓋を開けてみると
「塗り薬か、これは」
「はい」
そういえば幸村の手が荒れているなと又兵衛は思い、そして理解した。
「なるほど」
にやりと笑うと、幸村が首を傾げた。
「治長はそなたを心配して渡したのだろう」
「そう、でしょうか」
「手を洗いすぎたとでも、説明したか?」
「・・・はい」
幸村はその通りだと瞬きする。
苦笑しつつも、又兵衛は声を低くした。
視線はずっと手にあった。
「どうして、そんなに手を洗う」
「・・・」
「赤剥けているではないか」
ピンと空気が張り詰めたのを又兵衛は感じた。
話したくなければ話さずともよい、と言い掛けたその時。
「・・・血が」
幸村は俯いて、
「血が、こびりついて。
洗っても、洗っても、おちません」
消え入りそうな声で呟く。
「おちないのです。これは、」
そっと顔を両手で覆った。
又兵衛はただ見つめた。
長い沈黙も無く、
幸村の手を又兵衛がそっと下ろさせる。
「そなたの奥底にあるもの、儂にはわからん。
わからんが、受け止めることは出来る」
又兵衛と幸村の目が合った。
「そなたがそなたの物語をする時は、その隣にずっといよう」
共にいてやるだけでも何か変わるだろう。
又兵衛はそう思って、明るく笑った。
幸村も、つられて微笑んだ。
そうして思い出したように、
「・・・これは使ったのか?」
又兵衛が容器を差し出した。
幸村は静かに首を振った。
「私なぞに使うなど。勿体無くて・・・」
「しかし治長に返すのだろう」
「はい・・・」
「使っていなければすぐにバレて怒ってくるぞ」
「・・・」
不満そうな顔をした幸村の思いがわかり、又兵衛はまた苦笑した。
「治長はその手が戦に影響し、そなたが怪我をしないかと心配しているのだ」
「うそ」
だって私を苛めるもの。
そんな顔をしていた。
又兵衛は思わず吹いた。そして笑いながら
「嘘ではない。
奴なりに、秀頼公だけでなく皆を守りたいのだろう。素直に出さないだけだ」
と、薬の容器を幸村に手渡した。
「遠慮なく使ってやれ」
幸村はしばらく容器を見つめて
やがて頷いた。
少しは治長を見直しただろうか。
薬を塗る手を、
又兵衛は穏やかに眺めていた。
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反転で呟き。
某サイト様に影響されてつらつらと。
2008.6.15