その小さな体躯。
しわがれた声。
けれど未だ、漲る精気を持て余すかのように走り続ける。
どこにあのような力が残っているのか。
兄の背を追いながら、
秀長は不思議でたまらなかった。
四国を併呑し、
九州を併呑し、
そしてあの目は関東へ。
日本平定の後は海を渡り明へ攻め上るのだと笑ったあの笑顔。
またそんな大言をとその時は秀長自身も笑った。
何時だったろうか。
明と口にする兄のあの目がおそろしく見え始めたのは。
外はまだ明るく、かといって日差しは強くなかった。
空にはうす雲がかかっている。
兄弟は広い部屋が無駄であるかのように接近して座り込んでいた。
隣の部屋には供が控えているが。
とはいえ、
二人きりになるとどうも昔の、そうまだ織田家に属し始めた頃に口調が戻る。
兄が公式の場以外では小一郎と呼びかけるので、つい弟も二人きりの場合には主ではなく兄として扱うのだ。
上機嫌そうに秀吉は扇で己の襟元に風を送りながらしゃべり続ける。
秀長はゴホリと咳をした。
ピクリと秀吉は反応すると同時に口を閉じる。
なおも扇で扇ぎながら彼は小首を傾げた。
「どした小一郎。また風邪でもひいたか?」
「いや。・・・大丈夫じゃ」
秀長は笑みを見せると話の続きをと促した。
注意を向けはしたものの弟に大丈夫だと言われ、秀吉はそれに頷いて続けることにした。
「でなぁ、日本を天下統一したあかつきにゃあ・・・わしゃ明の王になりに行くで」
「海の向こうか」
瞳を瞬かせて秀長は首を傾げた。
秀吉は思い切り口端を持ち上げて おう、と頷いた。
段々と現実味を帯びてくるその話。
秀長は懸念せざるを得なくなってきた。
「日本はどうする」
「おみゃーにやる」
「・・・いらん」
案の定の答えに秀長はため息を混ぜる。
秀吉は扇子をぱちんと閉じ、
予想外だと云わんばかりに声をひっくり返す。
「なんでじゃ」
その大袈裟ぶりに目を丸くするも秀長は微笑した。
「今のままで、十二分じゃ」
「十二分か」
「うん」
静かに秀長が答えると、秀吉は困ったように軽くため息をつき、
もぞ、と座り直す。
秀吉は随分と不機嫌な顔をしていた。
「わしがいかんでかんわ」
「日本では足りんのか」
「おう」
先ほどの頷きに比べていささか無表情に秀吉は頷く。
「日本も固め切れてないのにか」
「おみゃーがおる」
真正面から即答されたその返答に秀長は思わず言葉を詰まらせた。
兄はひたすら前を向いて走る。
後ろは決して振り向かない。
自分も頼られているのだと感じられてそれが秀長には嬉しかった。
けれど、
走り続けたその先には何が。
「・・・」
秀長が黙っていると秀吉は明るく笑った。
「おみゃーがおるから、走ってこれた。が、ずっとそうしてきたら、止まらんくなった」
と、それまでの表情が一転。
秀吉は声を酷く落とした。
「止まらんくなったんよ」
「そうか・・・」
ころころと変化する兄の表情。
たまに見せるこの低い声が兄の本音であり真の表情なのであると秀長は思う。
けほりと軽く咳をして、秀長は頷く。
秀吉は何か考えている風であった。
「いや、わしゃ・・・止まりたくないのかもしれん」
「・・・」
「止まると、一気に疲れて老いて倒れて、ついにはしみゃあになってまう」
「走りっぱなしでは止まらずともいつか転げ落ちるぞ」
「わかっとる」
「本当にわかっとるのか」
「わかっとるわかっとる。しつこいのぉ」
ひらひらと力なく手を振る秀吉に、秀長は憮然として押し黙った。
「・・・」
「そうこわい顔すんなや」
秀吉は困ったように笑った。
かと思えば、何か思いついた様に膝を打つ。
「わしの考えはこうじゃ。
人間ちゅーものは幾ら歳月を重ねようとも老いぬ。理想を追っかけとる内はな」
秀長の顔を覗き込み、弟が怒っていないのを確認する。
「つまり、」
続けて秀吉は扇子を勢いよく開いた。
「理想を見失えばそれが老いのはじまりじゃ。わしゃまだまだ若くいたいからの」
呵呵と笑う。
そこに女の影もうっすらと見えて。
元の調子に戻った秀吉に秀長は
「・・・はは、兄上らしい」
軽く咳き込んでから、力なく笑った。
やがてさらさらと雨が降り出した。
「理想を、失ったのですか・・・っ?」
三成は血が滲むのも厭わず唇を噛み締めた。
小さな体躯に似合わぬ大きな寝具。
その真ん中で死んだように眠る太閤はひどく疲れ切った顔をしていた。
静かに見つめているうちに、ふと三成は思い出していた。
それは秀吉と秀長の会話であった。
実際は二人のいる部屋ではなくその隣の部屋に控えていたのだが、
なんとなく手持ち無沙汰でもあったこともあり、会話を聞いていた。
何度も、決して盗み聞きではない、と己に言い聞かせつつ。
その時の秀吉の言葉を思い出したのだ。
人は理想を失った時に老いる。
その言葉。
「秀吉さまっ・・・」
震えた声で何度呼んでも、
冷えた手を何度握っても、
応えは返って来なかった。
朝鮮からの使節が来た時のあの姿。
声高らかに命令を下すあの姿。
理想を追い求めていた主は確かに若返って見えた。
何が主の理想を失わせたのか。
御拾様が生まれてからだろうか。
世継ぎがまた生まれた事に安心しきってしまわれたのだろうか。
歳月の所為だと三成はあまり思いたくなかった。
老いてほしくなかった。
三成は細く古木のような手をそっと寝具の中に仕舞い込む。
起きる気配はない。
「秀吉様」
もう一度呼びかけてみても、やはり返事は無かった。
「北政所様の御なりに御座います」
静かに部屋の外から聞こえた声。
嗚呼貴女は毎日来ては涙を流すのか。
貴女の夫のために。
貴女と貴女の夫が築いた豊臣を憂いて。
それを見てはいけないような気がして、三成は退室することにした。
ふわりと香が三成の鼻をくすぐる。
すれ違う際、視線は合わなかった。
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反転で呟き。
序盤で燃え尽きました。
2008.8.18